CHINA DEMONSTRATION
天安門大虐殺から今日で20年です。
CHINA DEMONSTRATIONは近藤等則がその衝撃を曲にしたもの。事件から1ヶ月あまりの7月17日、インクスティック芝浦での抗議緊急ライブで発表「ライブハウスのスケジュールは余りにも『詰め込み過ぎ』で融通がきかない」と当時氏はボヤいていた、翌年アルバム「TOKYO ROSE」に収められました初回プレスはバラの香りつきシートが入っていた、もう香らないけど。ライブエイドが同様に曲を発表したがイケテネェ内容だった。タイトルはもちろんChina syndrome(原子炉溶融)のモジリ。同アルバムリリース時六本木交差点・誠志堂ビルのオーロラ・ビジョンでプロモーション・ビデオが流され観に行きました^^、TBS「LIVE G」・テレビ朝日「ミュージックステーション」にIMAバンドが出演した際にも演奏されるなど、バンドの看板ナンバーとなりました。オリコンチャート100位にもひっかからなかったそうですトホホが、ミュージシャンズ・ミュージシャンとしての共感を集めるきっかけになったのだとか。
まさに「慟哭」です。1960年代にこんなテーマを扱った曲があったかはよく知りませんが、イマドキの、当たり障りの無い・商品化しやすいソレとは比較にならないほどデッカく、恐ろしいものに対する怒りや悲しみが歌われています。天安門大虐殺に対する日本でのリアクションが少なかったのはかつての学生運動の中に「カッコだけだった」がかなり混ざっていた、ということなのでしょうか???「政治で良くなるとは思わない。むしろ単独でテロを仕掛けたほうが健全と言えるが、それはかえって逆効果。だから一人一人の感じ方を変えていくほかない(三好春樹)」。ひざ詰めの対話を通じて共感できる同志を1人、また1人と獲得していくのは途方もなく手間のかかる作業で、とかく人はこれを面倒臭がります付和雷同の集まりはここ一番に脆いので、メディアを介して訴えるのは非常に注意が要る。「ヒトゴトとは思えないのだ」人の問題を自分の問題として捉え、悩み、自らが今いるその場でより良く生きようとする…世界平和といってもその積み重ねの果てにあるものだと思うのです、誰かが用意してくれるのであればアレほどの犠牲が払われるわけがありません。
このIMAバンド抗議緊急ライブは私が初めて行ったナマ近藤でした。リンク先にもあるようにアンコール以外は全てTOKYO ROSEの曲だったせいか、ワケワカラぬまま私もワァワァ騒いでいたように記憶しております3日間耳鳴りが治まらなかった。黒田征太郎氏の描く絵は曲によってどんどん絵そのものが目まぐるしく変わっていき、これだけで1つビデオが作れるくらいでした埼玉の放送研究会の皆さん、お元気でしょうか?。
お互い「21世紀になったんだから」って思うこと、ありません?
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コメント
>>日本でのリアクション
89年ですからね。バブルの初期。全共闘とか、もう「無かったこと」みたいな時代では無かっただろうか?と個人的には思いますし、
たぶん、どこの国のどんなひとであっても、なにかキッカケというか、何らかの関わりのようなものでも持っていないと「遠くの不幸」には興味を示さないのでは無いかなぁ?とも思います。
私は右も左も過激なのは苦手なのですが、音楽って、そういう意味ではとても重要なものであるのかも知れませんねm(_ _)m
投稿: 川端 | 2009年6月 4日 (木) 12:17
川端様、いつも有難う御座居ます。
コメントを受け、書きそびれていたことを思い出しましたので親記事を加筆・再編集し、CGの一節をコメント欄に移しました。
>音楽
変革のあるところには必ず歌があるのですよッ。
余談ですがビデオ及びアルバムジャケットのCGはNHKのTV番組でお馴染みの島精機によるもの。近藤氏はこのバラを額に入れて「さんまのまんま」で明石家さんまにプレゼントしていましたが、さんまは「ナンジャコリャ!?」って顔してました。宇崎竜童からは「日活のポルノ映画みたいだ」と笑われてましたっけ。
投稿: alaris540 | 2009年6月 5日 (金) 00:55
ここ一番に脆い、付和雷同の98kです。(^-^;
'70年に20歳で学生運動に係わって、そのまま、
サラリーマンになった連中が定年を迎えますね。
わたくしの少し先輩の世代になりますが、
既成社会になじんだ組、なじめずドロップアウトした組、
けっこう多いのは、なじめないながらも、
なんとか定年までやってきた組でしょうね。
今、NHKの「日めくりタイムトラベルー昭和45年」
とゆー番組を見てますが、今から考えると、
無茶苦茶な時代でしたが、当時の社会問題は、
マスコミだけでなく、社会全体が騒いでましたね。
今と変わらぬ問題も多いのに、今は騒がなくなった、
とゆー感じはしますね。
そーいや、天安門のとき、騒いだ先輩は少なかったなあ・・・
投稿: 98k | 2009年6月 6日 (土) 22:23
本来子供・年寄り・障害者を支えるための社会であるはずがそれらを「あってはならないもの」と隔離することで経済効率を追求する禍は当分の間続く、どころか更に推し進められるのでは、と憂えるものです。また「世のため・人のため」と「自らの『いま』を守る」は決して相反することではないのに、なぜなんだろう…という現実も、ね。
結論自体は釈尊の昔に出てしまっているのですが、ソレは水平線を見るような感じ。水平線はそこにあってそこにはない、オマケに向かっていったところで辿り着けない、ときています。「じゃあ無理だ」ではなく、そこに向かっていこうとすることこそに意味がある、と思いたいのです。
投稿: alaris540 | 2009年6月 7日 (日) 01:39